日本人と国際人


翻訳大国  日本

 

日本は世界でも珍しい翻訳文化の国です。

わたしたちの国日本は、翻訳文化を作り上げるという方式で、過去に3回猛烈な勢いで異質な文明を受け入れた経験があります。それは縄文時代から奈良-平安時代までの「和漢折衷」、明治開花の時代の「和欧折衷」、更に第二次大戦後の「和米折衷」の3回です。

 

にもかかわらず、日本人は国際人であるとは言えない。その理由のひとつは、それは異文化を自分なりに翻訳してしまうことです。

翻訳文化の問題点は、翻訳することによって異文化との直接の接触が薄くなることです。本来の意味で、異質なものとして外国文化を理解することができなくなってしまうのです。

例えば、わたしたちはSocietyを「社会」という造語でわかったつもりになっています。しかし、英英辞典で引くとSocietyとは、"people in general"とあります。これをソサエティーとせず、「社会」という造語をあてはめたことによって、異質なものとしての外国文化を理解することがかえって難しくなっています。

 

何年か前、私は米国に本拠を置くCTI(Coach Training Institute)とコーチ養成機関の日本法人でコーチングを学んだことがあります。テキストは日本語の翻訳書である。しかしよく聞いてみると、当時CTIは世界三十数か国でコーチを養成していてたのですが、日本以外はすべて英語の原書をテキストに使っているとのことでした。

原書と翻訳書のあいだには無視できない違いがあったので日本人教官にそのことを訊ねると、なんと帰ってきたのは「翻訳書の方が進化している」という答えであった。それではせっかくコーチングを習っても世界では通用しないではないか!とがっかりした記憶がある。

日本が翻訳文化の国であることを改めて思い知らされたエピソードです。

 

 

あうんの呼吸

 

日本人がなかなか国際人になれないもうひとつの理由として、「あうんの呼吸」や「以心伝心」という日本独特のコミュニケーション文化の存在があげられます。こうした非言語コミュニケーションは日本のように島国で、同質性の高い国では機能します。しかし、多様な人種や文化習慣が混ざり合った欧米の社会では、行き違いや誤解が頻発してうまく機能しません。

 

更にもう一つ、日本のコミュニケーションには厄介な特徴があります。それは「本音と建て前」です。言っていることと、考えていることが違う。「よくいらっしゃいました」と笑顔で迎えながら、内心では「二度と来ないでくれ」と考えていることがあります。これは日本人にとっても厄介なことですが、外国人から見るとこれはとんでもない「crazy!」なことでしょう。

 

つまり、日本人がなかなか国際人になれないのには、言葉の違いだけではなく、日本文化の中に異文化コミュニケーションを妨げる要因があるからです。

 

折衷文化にもかかわらず独特

 

 

日本の文化のうちの、何が純粋に日本独特なのかを見分けるのは難しい。仏教や禅などは明らかに輸入文化だし、神道にしても縄文時代に大陸から稲作の文化が入ってきたころに始まりがあるようなので日本独特とは言い切れないだろう。

 

しかし、「日本の経営」の著者で有名なアベグレン先生が亡くなられる2年程前に、先生にパーティーでお会いしたとき、「日本は騎士道を残す世界でただひとつの国である」とおっしゃっていたのを思い出す。英国人の先生は英国から騎士道がなくなったのを嘆いておられたのだ。

 

思うに、日本人は輸入した文化を消化して日本らしいものにするのが上手なのです。古い文化を新しい文化で上書きするのではなく、合成してどちらでもあり、どちらでもない日本独特のものを創り上げるのです。だから、三度の大きな異文化交流があったにも拘わらず、いまなお日本らしさを保っている。日本文化の特徴と問われて思い浮かぶ言葉は、「したたかさ」と「折衷文化だが、独特!」です。

皆さんはどんな言葉を思い浮かべられますか?

以上